三浪の忘れ物サミット

世の中の忘れそうな、わざわざ考えるほどじゃないことだけ真剣に考える

3年後期GPA0.75だった三浪が4年前期の成績発表に涙した話

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大学生になり朝起きて最初にすることと言えば、顔を洗うことではなく単位取得状況を拝むことだった。

ゆめゆめ

免許取得後一度も運転していないペーパードライバーが交通事故を起こしまくる夢からさめた。

4年前期の成績発表を朝10時に控え、僕は5度寝の気持ち悪い眠りについていた。

よく眠れるわけがない。これで卒業か4年後期の追徴服役が決まるのだ。

ふと、夢うつつな中、これまでの人生を思い出す。

小さい頃僕が描いた将来の夢はどんなだっただろうか。

幼稚園の頃は生き物博士。

小学校低学年は空港のおまんじゅう屋さん。

小学校中学年はお笑い芸人。

小6の卒アルに書いたのは「プロ野球」だった。選手ではなく概念になりたかったのか。

中学に入った頃から、僕は「医者」と言っていた気がする。プロ野球から考えれば圧倒的成長だが、代わりに何か大切なものを失ったのではないか。

社会、周りの言う“見本ルート”を知ってしまい、それを頭空っぽでなぞっていた。

中1の頃か、父親が突然仕事辞めて「おばあちゃんの介護に行く」と千葉から佐賀に飛んでった。そんな我が家に身を置く三浪は「お金」や「安定」を意識せずにはいられなくなっていたのかもしれない。

えてして、精神的、身体的安全を確保できない家庭環境では、“心配”が第一行動原理になる子どもが生まれやすいものであろう。「人生は冒険や」などとはロボットの僕には到底言えなかった。

高校を選ぶ頃、「軽音部がある市立千葉や幕張総合に行きたい」とボソっと言ってしまった結果、ひどく母親に怒られた。これが僕の方向性を固める決定打だった。人生には不正解があるらしい。

高校受験をして、開成と筑附にしっかり落ちそれなりの良い高校に入る頃、三浪は塾の人達と同じように千葉大の医学部を目指していた。小中と周りには無限に優秀な人がいて、いつだって1番にはなれない、変な夢は見るだけ無駄というのが僕を取り巻く環境であり人生だった。

高2の文理選択も、何も考えず理系へ行った。千葉大の医学部か東大、そんな周りと同じ考え方にとらわれていた。いや、考え方ですらなかった。考えてなかった。

お金がもらえて、地位があって、困らず暮らせていける。これなら誰しも納得だ。

でも、消極的で自分に最適化されていない未来図に心がついていかなかった。

自分はお金で消費して幸せを得られるタイプの人間ではなく、創作などの体験を通じて幸せを感じる生粋の引きこもりだと何となく自覚していた。

そして僕は高3の秋、理系学部を捨て、志望校を京大経済に変えた。

京大の経済学部に行って金の流れは分かるようになる、失敗した時ちゃんと仕事に就けるようリスクヘッジもするから、作曲家目指してみたい。そう考え、親を説得した。

音大勢には実力で勝てないから京大出身のネームバリュー使って作曲家を目指す、という京大にも音楽にも失礼な野望はその後バチが当たることになるが、今となっては不思議と後悔していない。

3浪の頃、さすがにもう医学部行かないと色んな人に申し訳ないし、3浪で文系は許されない、などと血迷って一瞬再理転したが、誰に許してほしかったのかよくわからない。僕の考えが正しければ、これは僕の人生だ。

その頃には、国立に行った姉2人も長女が母と絶縁状態になっていたりフリーターになっていたり次女もファンキーな人生になっていたので、母がいつまで経っても家にいるニートの行く末に描いたハードルも死ぬほど低くなっていた。

そんな中で、僕は私文に来た。

残念ながら、僕や高校同期の中での評価は“早稲田政経”というより、“私文三浪”だった。

挫折とかおこがましい

4年連続京大に落ち、あれだけ挫折のような意識で入った早稲田だったが、その意識自体が早稲田に失礼だった。

三浪のGPAは目も当てられない超低空飛行を今日まで続けているのだ。空気抵抗の少ない低空を安定して飛び続けている僕のあだ名が鳥人間になる日も近い。

本当に安定しており、1点台で単位を落とさないというスリルを味わう、などと違う楽しみ方を心がけるまでになっていた。

しかし、ギリギリでいつも生きていたいと願った若輩に明るい未来は待っていないものである。

クソほど単位落とした。3年後期、GPA0.75。逆に難しい。

就活してたとはいえ、言い訳できる数字ではない。

この数字が家に送られてきたであろう佐賀にいる父親はどんな顔をしていただろうか。

ちなみに父親はお茶目なところがあり、「行けたら行くわ」的な大学生のような発言を毎年年末にしておいて4年に一回くらいしか帰ってこない。今ではオリンピックパパとよばれている。

そんな訳で、早稲田は皆優秀で、結局僕は勉学で功績を残すなんて無理だった。

日本思想という授業のレポートでアニメについて書き散らしてA+貰ったくらいだ。

4年生もこんな成績が続けば当然留年だった。入っていたゼミも知らぬ間に除籍されていた。ゼミって落ちるのか、とそうそう経験できない学びを得た。

頑張ったつもりなのにGPA0.75だった僕は、単位恐怖症になり大学4年にして初めて週5で大学に行った。

やはり僕を最も強く動かす行動原理は“心配”なのかもしれない。

6度寝からの目覚め

目が覚めると、起きるはずだった10時をとうに過ぎていた。人は、大学生になると時間という概念から解脱することができる。

そもそも時間を守れたら三浪なんてしていない。

僕は眠い目をこすりmy wasedaという早稲田生のポータルサイトを開く。

4年間、いつだって変わらず僕らの前に立ちはだかり、何かよく分からない機能は充実してるのに肝心のコンテンツが使いづらいしデザインもだっさい、我々の学費はどこへ消えているのだ、と限りなく怨念に近い愛着の湧いたこのサイトとももうすぐお別れだと思うと特に何も感じない。

そもそもこのサイト、科目登録が夜中2時以降できないって頭おかしいだろう。

早稲田生の生活リズムを何だと思ってるんだ。

何でもないようなことが胸糞だったと思う僕は、粗雑に成績照会の単位取得状況を開いた。

父の顔よりよく見た単位取得状況。

参列する控えめな数字たち。

そして4年前期、僕は登録した19単位を全て取っていた。

総取得単位数126。卒業必要単位数は124。

僕の学業人生が、終わった。

GPAは最後まで1.95と菅野の防御率と競える数字だった。ピンチにギアチェンジするのは僕も菅野も同じところ。

6度寝したせいか、頭はボヤっとしていて感慨とかは特にない。今はむしろ留年できないことに少し寂しさを感じる。

きっとこれから7ヶ月、野暮ったい通学から解放された喜びが怠惰に変わった時、たくさん気づいてしまうだろう。

ひとまず学業が終わり、特に何も成し遂げられず、特にやらかしもせず、次のステージへ大器晩成の期待をキャリーオーバーする。

とりあえず、眠い。長い時間夢を見すぎたようだ。

僕はこれまで何度夢を見て、何度惰眠をむさぼったのか。

そうしてまた1つあくびして、涙を浮かべる。