「ふーん、エッチじゃん」というスラングが心に刺さってキレそう
頭から離れない。助けてほしい。
ことの発端
僕だってこんなこと書きたくてこのブログを始めたわけではない。
「メディアのエロス論」という授業の期末試験を明日に控えているため、今回は仕方なく思考を整理すべく書いている。
ちなみにこの授業、大学側が公表している正式名称は「表象文化の政治経済学」というが、その実、講義中はたしかに「メディアのエロス論」について延々語られており、まさに表象的で隠匿感がある。卑猥だ。ふーん、エッチじゃんと言わざるを得ない。
「ふーん」の妙
話を戻す。
「ふーん、エッチじゃん」というネットスラングを知っているだろうか。
世の中には数多のネットスラングが、生まれては消えを絶えず繰り返している。3年間の修行以降、俗世を疎ましく思う僕はその類いに関心がなく、ネット上で見ても調べようともしないことが多い。
しかし、ある日Twitter上で見かけたそれは違った。
「ふーん、エッチじゃん」
出会ってしまった。通じ合ってしまった。僕の頭にはMy hairが流れていた気がする。
ふーん、、、エッチじゃん、、、?
意味が分からない。そんな言葉あるのか。常人の思考なら、ふーん、にエッチじゃんは続かないだろう。もっと言えばエッチにじゃんも続けない。普通に生きていればふーんエッチじゃんなどと発言することなく生を全うするはず。
しかし、なんだろう、妙にスッと心に入ってくるのだ。心に空いた穴にピースがはまるような。それは小さい頃、初めてお経を聞いた時のような心地良さ。昨日の試験のために覚えた経済の歴史すら既に思い出せないが、ふーん、エッチじゃんはおそらく墓場まで持っていくことになる。持ち物を選んでいいなら捨てたい。
この感情は言語表象論で解明できるのだろうか。ソシュールでもいい、レヴィストロースでもいい、誰か教えてほしい。
正直腹が立つ。僕はそういったネットスラングはあまり好まず、品の無い言葉遣いもそれを使用する人もあまり好まない家庭で育った。
そんな自分が、こんな、よりにもよってふーん、エッチじゃんなどというスラングに恋慕?に似た感情を抱いている事実が狂おしく許せない。
おそらくこれは、「ふーん、エッチじゃん」が語感良いからとか、TOKIOのAMBITIOUS JAPANのサビ冒頭と韻が踏めて
ふーん、エッチじゃん
我が友よ 冒険者よ
などと歌えるからとか、それもたしかにそうだが、理由はそれだけではない気がする。
だからこそメディアのエロス論によって、理知的かつ明晰的に原因を解明する必要がある。
ふーんとは、おそらく感嘆の際に出る言葉だ。しかしどんな感嘆かが謎である。
誰が、いつなんどき、この言葉を生み出したのだろう。
考えれば考えるほど情景が想像できない。ちなみに、2年ほど前にできたスラングのようだが正確な起源はわかっていない。
前提として、人はふーん、と言う時、一度他者の発言を持ち帰っている。しかしそこに含まれる意思表示としての意味は複数パターンあるだろう。①興味ない時のふーん、②興味深い時のふーん、③理解するため時間稼ぎのふーん、④反対の意思表示をするふーん!
この場合どれだろうか。④はないだろう。キレ気味でふーん!エッチじゃん!と言われてもどう謝っていいかわからない。
③も違うように思う。その後間髪なくエッチじゃん、と太鼓判を押しているし、仮に不確かな理解の結果を壁打ちするみたく自信なさげにふーん、、、エッチじゃん(?)と言われてもなんか照れる。
②の場合、興味深くふーん、エッチじゃんを言っている場合はどうだろうか。
それはそれで奇妙だろう。普通に考えれば脊髄反射の「エロ!」で済む会話が、まるで仮想通貨について話し合う意識高い学生のような感嘆詞の使い方になっている。そんな賢いこと言ってる風にキメ顔でエッチじゃん、と言われても比較的ぶん殴りたくなる。
と、では①はどうだ。しかしこれも難しい。
仮に①とすれば、興味がない素振りでエッチじゃんと言うのはどんな状況か。普通おかしいだろう。なぜならエッチ、つまりエロスは性的衝動であり、そもそも理性的思考ではなく、本能だ。エッチという性的衝動は、興味がないという冷静な思考とは一般に同居し得ない。
ひょっとするとこれは、月曜2限の文学論で学んだ主体の喪失化なのか。戦後、敗戦国となった日本では、家族の形態は国家と同じ道をたどり、すなわち我々は絶対的な個の喪失、共同化の道を歩んでいる。そういった中で、絶対的な主体というものも主客分離が曖昧になる中で、さながら仏教のように一如になっていく。
文学でいえば、小島信夫の抱擁家族といった作品で、自己の喪失をテーマに、どこか他人事のように物語が描写される。
そういった個の喪失や、一人称の視点の客体化、あたかもエッチと感じたのは自分なのに「客観的にいえばエッチなのでは?」といった意味のわからない、温度の無い第三者目線ぽく表現する、ある種の仏教じみた悟りの境地が、「ふーん、エッチじゃん」には内包されている可能性が高い(低い)。
思えば、このスラングを見るたびなぜか想起される越前リョーマの脳内イメージも、仏特有のアルカイックスマイルをしていた気がする。
仏教つながりでいくと、こんなことに引用したくないが唯一世界的に認められている日本の思想家と言われ、『善の研究』などで知られる西田幾多郎の思想に「純粋経験」というものがある。
これは
哲学で、反省を含まず、主観・客観が区別される以前の直接に与えられた経験
(コトバンクより引用)
という禅などを指すものであり、誠に遺憾ながら要するに「ふーん」という感嘆は、まさしく純粋経験の好例に思える。
禅でようやくたどり着いた境地を下心の解説に使われる西田幾多郎の気持ちを考えるとテスト勉強で夜も眠れない。
この、「ふーん」の深さが、「ふーん、エッチじゃん」というスラングの最たる魅力かもしれない。考えすぎて宇宙すら感じてきた。
「エッチ」とは(哲学)
そしてもう1つ大事なのが、「エッチじゃん」は何をエッチとしているかだ。
メディアのエロス論の教授は地味にフランスなどでも学会に参加するすごい人で師はデリダらしい。まじか。
教授によれば、エロスの基本構造は、4つに分かれる。
- 想像力による補完
- 社会的文化的コンテキスト
- 生物学的な性(セックス)
- 境界効果
簡単に説明すると、エロスは、想像力により増幅するところが大きく、フェティシズムやチラリズムなどがこれにあたる。
そしてエロスは社会差や個人差があり、普遍化ないし客観化することが困難であると。
次にエロスは生物学的な性であり、社会学的に構築されたジェンダーとは異なる。
最後に、エロスとは、境界、ないしボーダー効果であり、日常と非日常の境界などが大きく効果を発揮する。日本特有の制服にエロスを感じるのとかこれらしい。ふーん、エッチじゃん。
ここまで考えたうえで、改めて「ふーん、エッチじゃん」が使われる場面を思い出すと、何をエッチとするかが非常に興味深い。
というのも、たしかに、このスラングはシンプルにエロいものに対して即物的に使用されることもあるのだが、改めてtwitterを検索すると、「ふーん、エッチじゃん」はニッチな新幹線の画像や、渋いアンティークな洋服など、常人には理解しがたい対象に使われることも多いのだ。
しかし、だからといって、エッチじゃないかと言われると、僕らはなぜかこれをもエッチと表現してしまう。おかしい。脳がバグってる。僕らはいつからオシャレな古着や、渋いジャズなどをエッチと言うようになってしまったのか。
これはもはやエロスなのかという疑いを、上述の4項目で照合していく。
そうして僕は1つの仮説に行きついた。4つのうちの3つ程度を満たすと、僕らは「エッチ」と錯覚するのではないか。
1つ目に、フェティシズムは必ずしもエロだけではない。したがって、洋服やジャズなど琴線に触れる聴覚や視覚効果を得た時、人はエッチと思うのかもしれない。
2つ目に、社会的文化的コンテキストも同様で、非常に社会差、個人差があるこれら各個人の琴線、趣向が、対象の認識をエッチたらしめているのではないか。
エッチたらしめるってなんだ。
3つ目に、おそらく境界効果が効いている。オシャレな古着だって、渋いジャズだって、日常と非日常の境目にあるからこそ、僕らは得も言えぬエクスタシーを感じ、その純粋経験が「ふーん、エッチじゃん」という言葉になるのだろう。
唯一満たしていないのが、生物学的な性である。この部分が欠落しているから脳がバグったような混乱を生じるのだろう。
しかし、人々が「ふーん、エッチじゃん」をtwitterなどで使用する時、おそらくそれは、自身特有の思想を外部へ主張しようとしているのではないか。
つまり、自身の固有情報を思想という形式で後世に残そうとしているのではないか。
ここまで来たらもはや、生をかけた闘争であり、ちょっとしたセックスだ。
まとめ
おそらく広く使われている「ふーん、エッチじゃん」は、シンプルにエロいものにも使われる一方で、エロスの基本構造をまさに脱構築的に再定義した「エッチ」を基底として、自身の琴線に触れた「エッチ」な純粋経験の瞬間をも、これ以上なく的確に言語化した完璧な日本語なのかもしれない。
こんなことを書いても単位は来ない。